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Mother and child

2025年1月7日火曜日

「表現の本質と人間存在の本質について」

「表現の本質と人間存在の本質について」



 仰々しい表題である。だが我々は人間存在として生存していく以上この問いから逃れることはできない。否、逃れようにも逃れられないのである。

仮に我々に思考というものが備わっていなければこの問い自体が成立しない。
ただ単に動物以上でも以下でもない、というにすぎない。無論この考察、認識自体も生じ得ない。
もし我々に思考という道具が備わっていなければ自己認識、つまり私・自我意識は生じえないからである。くどいようだが自我意識が無ければ世界そのものの認識、自覚は生じ得ないのである。
この考察は、私が前から何度も繰り返して言い続けている内容である。

自明だが、私という自覚が無ければ世界も他者も認識の対象たり得ない。
我々の用いている思考とは単なる個人の所有物でもない。我々人間に本来備わり用いている普遍的な「思考存在・実体」でもある。この思考そのものの考察が頗る重要な問題にも関わらず、今日の時代に至っても考察の対象にされていないというのが実情なのである。
我々は如何なる時にでも思考を用いている。思考の結果、我々は様々な、或いは各個々人に相応しい言動に及ぶ。
この思考に関する考察という問題は共通の意識状態、基盤に立たぬ限りは限りなく紛糾する。思考そのもの、思考の実体を物の如く指し示すことは出来ないからである。この考察自体が其々各自の主観に基づくもののとして簡単に処理されてしまう。此処に紛糾の問題が含まれているのだが、これは感覚界にあるあらゆる事物を知覚するようには知覚できない、という単純な理由による。
万人が共通に認識し得るような数量化不可であるという、これまた単純な根拠に依る思考法が殆どの魂を呪縛しているからである。これを物神思想とも言う。この物神思想とは唯物論的世界観的思考法を基盤とした極一般的な私を含めた世界に対する認識法なのである。この呪縛を打破するのは容易ではない。
私が死ねば知覚する「主体」である「私」は消え去る。私が消え去るとすれば「知覚する私」が存在しない以上は世界を知覚することは不可能である。ゆえに「私が消滅すれば世界も消滅する」という彼の有名な唯物論的基盤に立脚した観念的世界観が生じる。この世界観は今日でも衣装、概念は違えど殆どの哲学者と称する存在達の魂に根深く巣食っている。この世界観が既に日常的に、習慣的に用いられている。

さて、これは日常生活を営む人々、存在だけではなく芸術表現する存在達の魂をも深く浸食しているのである。
近代から現代に至るまでに個々人を襲った受難劇とも謂える悲劇劇は今や意匠となって芸術を蹂躙しているといっても過言ではあるまい。

先日或る先駆的抽象画家に対して知名度のある学者と文学者がテレビで語っていた。実名を挙げても大して意味はない。殆どの自称他称博学、識者と称される人物の代表のようなものだからである。

抽象表現形式が生じた要因は必然的なものである。これは思考の考察にも似た困難な問題を含んでいる。
簡単に言えば、無知の知や不立文字、相対的意識、虚無、空等々の概念、意識状態と同質の意識状態、或いは自己認識の個人の限界の自覚であるが、これは到着点ではなく此処の地点が真のスタート地点である、と言えば大抵の人物の思考は混乱する。単に事物を公平、純粋に偏見なく観る一視点にすぎぬ、と言い切れば反感さえ抱かれるであろう。
さらに換言して言えば「我々はやっと自己認識の真のスタート地点に立ったのだ」と。この物言いは「おまえは何様のつもりだ、偉そうに」と。傲岸不遜極まりない人物と看做される。
我々の時代に至って、あらゆる境界は消失した。この消失は個人の魂に内的倫理的な課題を自らが背負わなければならぬ、という自己責任と自覚が伴う。
この自覚は個々人の趣味趣向や個人的興味なども完全に消滅することを意味する。この個人の受難劇はあらゆる表現形式に及んでいる。この重責に耐えきれずに殆どの先駆的表現者は斃れた。この難破、方向を見失い自滅した魂の「表現者達の作品」を一瞥すれば分かることである。
この難破した状態は依然として打破されずに百花繚乱の如き様相を呈している。


2009年7月29日

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2024年4月25日木曜日

拙著「小林秀雄論」より

 拙著「小林秀雄論」より


「未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも彼はまさしく見たものは見たのである。」又「他界から取って来るものに形があれば形を与えるし、形のきまらぬものなら形のきまらぬ形を与える」(ランボオⅢ、千里眼の手紙)しかない。確かに、形になり得ぬものがある。

カメレオンは色だけだが形は変容しない。ましてや、人間の複雑な心となればなおさらである。形にならぬ形、ある秘められた実体というものは確かに存在する。小林秀雄がある友人に語ったように「じっと見つめているんだ見て見て、見抜くまで見つめているんだよ、ただ見抜いただけではいけないんだよ。そこまで来たら、さっと底の底まで知りつくすことが出来るようにならなくてはいけないんだよ」と、この地点まで至らねばならぬ。そこまで至ればすでに対語など不用になる、つまり「以心伝心」の境地だからである。


 青山二郎との対談の中で小林秀雄は日常秘めていた本音を語っている、彼は言う「否定する精神なんてないさ。僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後はあすこなんだよ。キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば自分が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。――」。

さらに、「牧師だって絵かきと同じだ。」と。又、「――何のためにパレットを人間が持たなければいけないのだ。絵の具を混ぜなければいけないんだ。どうしてそんなまわりくどい手段を取るのか、キリストみたいに一目でもって人が癒されればいいじゃないか。何んで手が要るんだい、道具が要るんだい、ゴッホはそういうことろまで来たのだよ。だけどそれがゴッホの運命さ、そんなことをゴッホはとてもよく分かっていたのだけれども、どうすることもできなかったんだ。」と。そのゴッホの痛感した、味わった「いかにかすべきわが心」を、小林秀雄も骨の髄まで味わった。

青山二郎はそんな思いは「あこがれ」にすぎぬと言う。この溝は深い、――。小さな円も大きな円も同じ円だからである。ただ青山二郎はそこまでしか見えなかったにすぎぬ、人間存在に対する不信が完全に払拭し得なかったに過ぎぬ。その視点からすれば小林秀雄は所詮「蒸気ポンプ」の煙にすぎないのである。もしくは魚をつる、その手つきだけで、等々。だから小林秀雄としては「――自分の運命を甘受するんだ。甘受するよりしょうがない。考えればそういうところに行くのだよ。」と言わざるを得ない。断わっておくが、青山二郎に友情が無いなどとここで言っているわけではない。むしろ、深く小林秀雄には同情している、ただ、その同情のべールが小林秀雄の真意を汲み取ることが、観ることが出来なかったにすぎぬ。――だから小林秀雄は自分に与えられた運命を「甘受」する、するしかないとしか言えぬ、語れぬ。


小林秀雄は「魂の深淵の旅」の成果を確かめる、再確認の意味をも含めた実験的表現を「近代絵画」で試みた。出来うる限り他者の魂の在り方、意図、心の動きに即して、――魂の遠近法と透徹した科学者の無私の精神をもって。自らの「自我の奥底を覗き込んだ芸術家達」の肖像画を描く。


「マネからゴッホやゴーガンに至る道は、ボードレールからランボオやヴェルレーヌに至る道であった」と。そして、それを日常化する思想家的存在として「ピカソ」を最終章にもってくる。小林秀雄はピカソを自分と似た「宿命」を胸中深く蔵した存在と、観た。ピカソのなかに「自己解体」の果てに至った自己の「断片」をいかに、個人の名において「生命的に統一」するか?と真摯におのれの問題と化した、果した芸術家の魂を観た。観えてなを、それを「宗教の名」において語らず、「体系」の名において語らず「いかに自由に」表現しうるか?と、日常化しうるか?と、――ピカソは「万人の自画像」を描こうとした。その内的歩みにどれほど深く秘められた孤独と、悲哀、絶望がピカソを襲ったか、いかにそれを乗り超える内的努力をし続けたかを、小林秀雄の慧眼はしっかと見抜き、見据えていた。ピカソに対して一番長い文章を必要としたのはそのためである。そこいらの美術評論家の上っ面をなでるような分析的表現とは雲泥の差がある。「近代絵画」は小林秀雄の心が「素裸」のまま、存在と存在が融合しつつ、ぶつかり、火花を散らし、そして「親心の眼差し」で、深い共感をもって現わした、かつてないほど比類なき芸術家の「魂の肖像画」なのである。

歯ぎしりが楽音に、忍耐が空間へ、悲哀が慈しみに、孤独と苦悩が魂と魂の生きた織物へと、――ついに、毒が薬へと変容する。肉を具えた「同胞」への限りない「深い真面目な愛」が日常の意識と化し、不動のものとなる。次の文章は小林秀雄の批評の極意と言ってもよい。


「セザンヌは、自然というところを感覚と言ってもよかったのである。或は感動とか魂とか言ってもよかったであろう。感覚を解放するとか純化するとかいう事は、感覚から感受性を隔離するということではない。そういう工夫は、感覚に対する言わば外的注釈にすぎない。在るがままで、自足しているが、望めば望むだけいくらでも豊かにもなるし、深くもなる。そういう感覚はある。画家たらんと決意すれば立ちどころにある。静かに組み合わせ、握りしめた両手の中にある。一方の端は、自然に触れ、一方の端は、心の琴線に触れていて、その間に何の術策も這入って来る余地はない。大事なのは、この巧まない感覚の新鮮な状態を保持し育成する事なのだ。彼の言葉に従えば、油断すれば、あらゆる言葉となって、行動となってばらばらに散って了う、この不安定なものを繰り返し、静かに両手のうちに握り合わす事なのだ。『いつまでも、自分の開いた道の原始人に止まろうと努める事なのだ』。自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事だ。セザンヌの実感或は信念よりすれば、自然にも心の琴線があるという事である」


(拙著「小林秀雄論」より抜粋)



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