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Mother and child

2010年12月6日月曜日

「無知の知の日常的自覚」(拙著小林秀雄論より)

「無知の知の日常的自覚」(拙著小林秀雄論より)


 「――小乗は初後ともに実相を知らず、故にいまの漸にあらざるなり。問う、三文を示さば、文はこれ色なり。色はこれ門なりや、門にあらずとせんや。もしこれ門ならば、色はこれ実相なり、さらになんの通ずるところぞ。もし門にあらずんば、いかんがして一色一香みなこれ中道なりというや。答う、文と門とならびにこれ実相なり。衆生は顛倒多く、不顛倒少なければ、文をもってこれを示すなり。すなわち文において文・非文・非文非不文に達すれば、文はこれその門なり。門に一切の法を具す。即ち門、即ち非門、即ち非門非文門なり。」(摩詞止観、序章、関口真大校注)

 生身を具えた個人が普遍的意識に至ると(心情であれ、観念であれ)、一個人を支える基盤が消失する。だがそれでも依然として肉体を持つ個人は、あくまで「個人」として存在する。個と全体との一体感を感覚レベルにおいて体験した場合に、先に言った「心眼」が覚醒し、思考を通して「自己認識」がいやでも自覚され「世界認識」へと発展す る。ここにあらゆる「個人」の存在の、生存の危機が、自己喪失の可能性がある。真の狂気とは多次元的意識と心情を具え、かつ明晰な自己意識を所有した個人の「対人間関 係」の異名である。その意識を日常的に持続することが非常に困難なのである。少しでもバランスが崩れると人格が分裂し、崩壊する。まして「教義」によらず、「体系」によ らずとなればなおさらである。ふつういわれる狂気とは所詮「現実からの逃避」にすぎぬ。
最もその区別をつけるのは、果して正気の者か、狂気のものか分かったものではな いが。あえて言えば、今の現実においては真の狂気が、真の正気である。むろん日常生活で他との調和がとれずバランスを崩せば「病い」と断定されてもやむを得ぬ。この実体を知らぬ者達がいわゆる「狂気」という一見非日常的な意識状態にあこがれる。
――
近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――

 「無知の知」の意識と、「抽象表現」の形式を生み出した原理意識は根本的に同質である。その自覚が、その意識が、個人の魂に意識化させられる。そして、それを一般化せねばならぬ、させねばならぬ、と。だが、自我の奥底を覗き、かつ、自己のバランスを保つ事だけで精一杯の自分が、――むろん、「成しうる事を成す」ことは自明のものとなっている。自己の生きている時代に即して、即さずいかに、そのことを「万人」に伝えるか? いかなる表現、形式を生み出さねばならないか? それも「個人の名」のもとに、かつて聖者達が所有した意識を、心情をいかに悟らすか、どのような階段を、パイプを、橋 を作るか!?――

 「いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。」。天才であればあるほど苦悩は深く、強く、激しい。当然である、「彼岸と此岸」のはざまに意識的に立つからだ。彼の「プロメテウス」のごとく。
「肉は悲し」などという意識だけでは「象徴の森」、「虚空遍歴」から脱け出ることは出来ぬ。

 ただ「近代」という時代にあっては小林秀雄の言うごとく「伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識を持って人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生と いう『象徴の森』を横切る筈である。それは彼に言わせれば、夜の如く或いは光の如く、果しなく拡がり、色も香も物も互いに応え合う。こういう世界は、歴史的な、或いは社 会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現われる。それは彼の言う『裸の心』が裸の対象に出会う点なのである。詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や 約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である。とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物 にも頼らない詩の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。」。これは詩に限らず他の分野にも言える。そして「詩」という言葉を「個人」という言葉に置き換えてもいいの である。「詩魂」とは「いかにかすべきわが心」の精髄である。

「いかにかすべきわが心」 だけでは済まぬ現代にあって、知的ゲームの達人や地上を、日常的生を遊離する中途半端な神秘家や教義に呪縛された宗教家達は毒にも薬にもならぬ「仙人」にすぎぬ、やじ 馬にすぎぬ。

(中略)

 自覚した存在はまずその「時代」と心中する。そして、その存在の天分による能力を その時代に即して生かさんとする。つまり恋愛的関係から普遍的愛まで高まり、それを、その当人の等身大の思想、表現となるまで。日常的生のなかでその「火」は直に「顕 現」することはまずない。むろん、彼はおのれ自らの意志でさせぬ。

「毒は薄めね ばならぬ」。そしてついにあらゆるものに対する「親和力」を身につける。これがあの、 かつては観念であった言葉、「驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得た」が、彼自身の魂となり、肉体と化した。
拙著小林秀雄論より)


 「――小乗は初後ともに実相を知らず、故にいまの漸にあらざるなり。問う、三文を示さば、文はこれ色なり。色はこれ門なりや、門にあらずとせんや。もしこれ門ならば、色はこれ実相なり、さらになんの通ずるところぞ。もし門にあらずんば、いかんがして一色一香みなこれ中道なりというや。答う、文と門とならびにこれ実相なり。衆生は顛倒多く、不顛倒少なければ、文をもってこれを示すなり。すなわち文において文・非文・非文非不文に達すれば、文はこれその門なり。門に一切の法を具す。即ち門、即ち非門、即ち非門非文門なり。」(摩詞止観、序章、関口真大校注)


 生身を具えた個人が普遍的意識に至ると(心情であれ、観念であれ)、一個人を支える基盤が消失する。だがそれでも依然として肉体を持つ個人は、あくまで「個人」として存在する。個と全体との一体感を感覚レベルにおいて体験した場合に、先に言った「心眼」が覚醒し、思考を通して「自己認識」がいやでも自覚され「世界認識」へと発展す る。ここにあらゆる「個人」の存在の、生存の危機が、自己喪失の可能性がある。真の狂気とは多次元的意識と心情を具え、かつ明晰な自己意識を所有した個人の「対人間関 係」の異名である。その意識を日常的に持続することが非常に困難なのである。少しでもバランスが崩れると人格が分裂し、崩壊する。まして「教義」によらず、「体系」によ らずとなればなおさらである。ふつういわれる狂気とは所詮「現実からの逃避」にすぎぬ。
最もその区別をつけるのは、果して正気の者か、狂気のものか分かったものではな いが。あえて言えば、今の現実においては真の狂気が、真の正気である。むろん日常生活で他との調和がとれずバランスを崩せば「病い」と断定されてもやむを得ぬ。この実体を知らぬ者達がいわゆる「狂気」という一見非日常的な意識状態にあこがれる。
――
近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――

 「無知の知」の意識と、「抽象表現」の形式を生み出した原理意識は根本的に同質である。その自覚が、その意識が、個人の魂に意識化させられる。そして、それを一般化せねばならぬ、させねばならぬ、と。だが、自我の奥底を覗き、かつ、自己のバランスを保つ事だけで精一杯の自分が、――むろん、「成しうる事を成す」ことは自明のものとなっている。自己の生きている時代に即して、即さずいかに、そのことを「万人」に伝えるか? いかなる表現、形式を生み出さねばならないか? それも「個人の名」のもとに、かつて聖者達が所有した意識を、心情をいかに悟らすか、どのような階段を、パイプを、橋 を作るか!?――

 「いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。」。天才であればあるほど苦悩は深く、強く、激しい。当然である、「彼岸と此岸」のはざまに意識的に立つからだ。彼の「プロメテウス」のごとく。
「肉は悲し」などという意識だけでは「象徴の森」、「虚空遍歴」から脱け出ることは出来ぬ。

 ただ「近代」という時代にあっては小林秀雄の言うごとく「伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識を持って人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生と いう『象徴の森』を横切る筈である。それは彼に言わせれば、夜の如く或いは光の如く、果しなく拡がり、色も香も物も互いに応え合う。こういう世界は、歴史的な、或いは社 会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現われる。それは彼の言う『裸の心』が裸の対象に出会う点なのである。詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や 約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である。とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物 にも頼らない詩の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。」。これは詩に限らず他の分野にも言える。そして「詩」という言葉を「個人」という言葉に置き換えてもいいの である。「詩魂」とは「いかにかすべきわが心」の精髄である。

「いかにかすべきわが心」 だけでは済まぬ現代にあって、知的ゲームの達人や地上を、日常的生を遊離する中途半端な神秘家や教義に呪縛された宗教家達は毒にも薬にもならぬ「仙人」にすぎぬ、やじ 馬にすぎぬ。

(中略)

 自覚した存在はまずその「時代」と心中する。そして、その存在の天分による能力を その時代に即して生かさんとする。つまり恋愛的関係から普遍的愛まで高まり、それを、その当人の等身大の思想、表現となるまで。日常的生のなかでその「火」は直に「顕 現」することはまずない。むろん、彼はおのれ自らの意志でさせぬ。

「毒は薄めね ばならぬ」。そしてついにあらゆるものに対する「親和力」を身につける。これがあの、 かつては観念であった言葉、「驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得た」が、彼自身の魂となり、肉体と化した。