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Mother and child

2016年9月2日金曜日

表現の本質について



「表現の本質について 」


 ここで考察の対象として扱われる「表現」とという言語は生存即表現にまで至った「創造的なもの」としての「表現」であることを初めに明記しておく必要がある。何故かかる「表現」という概念用語にこだわるかといえば、今日の芸術表現とか美的表現等々と安易にコンビニに並んでいる商品と同等同列に売買されているからである。

 芸術表現の内容そのものが一般化されること自体には意義がある。ただ、質と量に関する重要な内実が無視されて等価値に取り扱われるとなると事は深刻な問題を含む。簡単に言えば表現の本質は市場で取引されるような商品とは根本的に異質なものなのである。これは高級とか低級といった問題ではない。近代から今日に至るまで哲学思想界の先駆的存在者達によって一切の価値転換という相対的視点の変革が行われて生存の意味や意義、或いは形而上的世界(精神界)が放逐された。現実から遊離した半端な空想妄想的世界観を根絶やしにする為には一役かったが、本質的な問いをも併せて放逐するとなれば野蛮極まりない暴力と言わざるをえない。

 確かに厳密な言語思考による考察が相対化され、偏見や公正なる視点が一般化されるのは望ましい。その意味においては存在論的には肯定するにしても現実の社会実状のお粗末さは悲惨極まりない。(真の形而上的世界、精神世界に関する探求のみが自己探求たりうるのであるが、この探求自体が狭隘な精神の自由の名のもとに自ら崩壊し方向を喪失している。)
 我々は加速的に堕落腐敗に浸食され続けているにも関わらず、ますます実体無き「表現」は多様化しては枝葉雑草のように増殖し続けている。
 それ故、敢えて芸術表現、創造的表現という言葉ではなく単に「表現」(無論、前提としては広義の意味においてだが。)という概念を用いることにした。

 だが、この考察の最後の方では創造的な意味での表現即生存、生存即表現という視点による考察論調へと必然的に移行することになる。
 今日、あらゆる分野の「表現」の核となっている世界観は相対的ニヒリズムと言っても過言ではない。この現象自体は極めて矛盾に満ちている。それにも関わらず自覚無自覚を問わず個人の魂を魅了している。生成死滅する感覚界においては確かに生存自体が無意味で一切が相対化されうるとの思考は可能である。だが、この一思考の結果が生存即無意味であると判断するのは誤りである。世界に対する態度としての、一切の偏見や公正な一視点としては自明の如く必要ではあっても、この視点から思弁によって導き出された世界観などあくまでも唯物論の範疇にすぎない。
 確かに自然科学的考察においては自明である相対的思考にすぎぬ視点が人間生存の世界観となり目的となれば、個人の個人たる足場は消失し自滅に至るのは当然である。それにも関わらずファッションの一意匠として威力を奮い我々の魂が好んで魅了され酩酊するのは何故か?(敢えて精神とは言うまい。)通俗的な言い方をすれば味噌も糞も一緒くたにしてしまえば都合がよいからである。「全ては等価値にすぎぬ」と、個々人の魂に何と心地よく響く言葉であろうか。さらに弱肉強食のおまけ付きとくればなおさらである。一切の価値が相対化されるとは一切の基準の無を意味する。その限りにおいては自由も不自由も無ければ善悪の区別も無い、さらには全て個人の責任においての選択の自由とくれば何でもござれである。個人という存在すら相対化され、当然なことに責任や倫理という概念すら消滅する。かかる一切の境界を消し去り、好き勝手な言動何でもありということが可能な魔法のごとき思考、思想を誰が拒もうか。

 この物質界のみ当てはまる一思考が芸術、文学、思想界に君臨し、一般化されて久しいが、かかる現象は単に世を混乱退廃させるだけではなく無自覚な社会的集団狂気へと変貌させるのは必至である。
 しかし、個人の魂において不可欠であった相対的思考は内実を伴わず伝播したとはいえ、総体として厳密に考察すれば決して悪しきことのみではない。腐食した土壌が生物の養分となるように、環境に呪縛されずに貴重なるものが成長することも又可能となったのである。その意味では自己認識においてはやっとスタート地点に立った、と言うこともできる。だが、このスタート地点以前の存在達が時代の最先端にいる、と自負しては社会でのさばっている。(最も、時代の流動推移する色合いにすぎぬ彼らは攻撃するまでもなく放置していても単に無知愚鈍なるがゆえに自然消滅するであろうが。)
 換言すれば相対的世界観とは悪しき無常観でもある。本来の相対的意識は表現方法としては抽象表現の母体にすぎない。くどいようだが一切の価値転換とは全ての事物(不可視なる霊魂、想念をも含む。)に対して無偏見視、透明な眼差しの獲得に他ならぬ。それ以上でも以下でもない。故に自己探求の途上で抽象表現に至った作家達は東洋的世界観に強く惹かれた。自己滅却したうえでの自己保持が如何にして可能であるか?純粋な関係性のみの関係の意識のみで如何に自己意識を保ちうるか?と。さらには解体された過去の論理体系は全ての支点を喪失し、個人は言語的矛盾に陥るどころか完全に失語する。
 だが、依然として思考自体は個人の思惑とは関係無く活動する。なぜなら思考自体はそれ自体で独立した意識存在なのである。換言すれば純粋思考存在である思考は我々が人類として存在するように思考存在も思考存在として完成した独立存在として我々に与えられている。この思考自体の存在の自覚無自覚の度合いに準じて分析の緻密さの濃淡が存する。哲学的用語を使えば先天的即自的に我々人間に備わっているのである。我々に何時何処で何の為、誰が等々の問い、あらゆる問い「備わっているということ自体何故分かるのか?」という問いにもこの即自的存在であるとしか言えない完成された独立した思考存在の助けを必要とする。この間の考察がはなはだ不明瞭な為に分析の基本となるべき基本言語が曖昧に使用され論理矛盾に陥るのである。「最初に思考在りき」が意識無意識を問わず前提となる。この我々自身を対象化、考察する道具としての思考存在を前提として思考しなければ一切の分析思考は迷走混乱するのみである。

 さて、話を戻すと我々にとって知覚する対象(概念も含む。)を相対化した以上単なる名称無き「ある意識」としか言えない。全ての概念は思弁的な仮の命名にすぎない。いわゆる意識という言語ですら思考によって分析判断命名された一概念である。(無論、思考という言語も然り。)さらには知覚する対象、或いは知覚する機能が停止、消滅すれば一切は無(無論、感覚的現象界においてのみだが。)と化す。生成死滅する現象界に限定した観念的世界観、これが「世界は表象にすぎぬ」という素朴な世界観となる。物質界を基盤とし、知覚する対象自体、それを知覚する主体である個人の自己意識の消滅と共に一切が無と化す。何のことはない元の木阿弥ということである。かかる結論に至るような思索や問い自体のみであるとすれば最初から思考停止の状態で獣の如く生きればよいことである。一切は屁理屈というも愚かである。確かに此の限定された物質界に依存従属した存在であれば、それが全てであれば至極自明というも無用である。
 だが、我々は人類という考える生物でもあり動物でもある。此の実体を伴わぬ虚無観に不満を抱き、更に先に生存の意味を探求し、結果的には似た視点に至るもその無意味な生存を丸ごと生きるのが人類の運命であると、常に超克する意志の存在こそすなわち超人が人類の課題であるという世界観、かのニーチェの「生命哲学」と称される唯物論を土台とした徹底的な個人主義が生まれ、さらにそのいびつな落とし子として実存主義なる唯物論を足場とした矛盾をはらんだ観念的世界観が生じた。詳細に語るまでもなく、他のシュールリアリズム、ダダイズム等々はその範疇の一実験にすぎない。一切の基準を無くしたら単なる無自覚な生物にすぎぬ。ましてや自己意識すら持たぬ存在に表現自体不可能である。生存の為の生存、生物的生、自然の摂理に依存しなければ生存自体が不可能であることなど、考えずとも子供でも分かる単純な理屈である。だが、この単純な問い自体が未解決のまま現在でも最先端の思想としてまかり通っているとは、形容し難い悲惨な光景である。
 我々は紀元前からの命題である「汝自身を知れ」という自己認識の困難さを克服するどころか未だ無知の知の実体すら朦朧たるものとしてしか認識していない。否、それどころか現状では真摯な自己探求の意志を自ら放棄している、と言ったほうが事実に近い。

 今日の我々の意識の在りようは約二千三百年前の荘子の世界にのどかにじゃれあう児戯に等しい。さらに三百年ほど遡る孔子の厳しい実践的意識を前にすれば実存主義思想など赤子の如きである。