Face

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Mother and child

2026年7月12日日曜日

「擾乱」

「擾乱」https://note.com/umezaki


 


ああ、眩暈、吐き気、脳味噌は軋み痺れ、心身はのたうち........


想像を絶する狂おしい情念、観念の炎に焼かれて俺の魂はついに気化された。だが、これは闇の宴の序章にすぎなかった。


この極めつけの狂人と区別もつかぬ言動をしかと観る者はいまい。


この俺自身ですら原始人並と痛感する。共通の基盤となる土台の欠片も無い未知の状況に陥った者しか共感しまい。


だが、その時には既に感覚的言語など不用である。空間自体が言語の海だからである。


透明な血液のように空間にひしめき流動している。あらゆる光彩を放ちつつ.......


一切が感覚世界に似て、似ていない。それも五官の知覚と同じく生々しい。こんな言い方では説明にならぬ。我々の習慣言語などまるで役にたたぬ.........


だが、自己を納得させるだけの言葉は必要である。自らの自意識を保つ為にだ。


まるで赤子が学ぶようにあらゆるものから手あたり次第にあらゆる体験を味わい、手探りから選別識別の無様さである。


気取った詩的比喩など実践ではますます混乱して対話の邪魔でしかない。

だが、時ととも嫌でも慣れてくれば、そのゆとりもでてこようが。


未知なる深淵に融けて自らを分離器にかけ、さらに精製しては刻彫する。その伸縮自在なる素材と形態とを再び時空に融合させ神速の触手で選別する。


如何なるものにも応対可能なれど常に一方通行も止む無し。此れ自明にてさらに克明にすれどその深淵の度測りしれず、深淵の深淵たる所以なり。


これに失神せしもの多し。狂い乱心自滅せるは湿地帯に足を取らるる所業。


この淵底無しにあらざり。飛ぶは無邪気なる脚力を要すのみ。


それ知らざるもの奈落の恐怖に呪縛され同化して闇と化す。


単にそれを知力胆力無力なるを酷と言うは非道であるか。


或いは、精妙なる自己愛と情との蜜の婚姻たる因果の報いと言うも外道であるか?


この問い自体、脱皮離魂せし者のみ発せるとは又語り難し。


さながら荊棘に転々流転せし異形者のみ引導許さるると、かくも断腸たる過酷なる裁断を強いられし懊悩量り難し........


此の地に同病相哀れむなる如き者や言葉等皆無に等しい。


  

さらには此の重責知る者、見渡せど皆無也、か。


2025年1月7日火曜日

「表現の本質と人間存在の本質について」

「表現の本質と人間存在の本質について」



 仰々しい表題である。だが我々は人間存在として生存していく以上この問いから逃れることはできない。否、逃れようにも逃れられないのである。

仮に我々に思考というものが備わっていなければこの問い自体が成立しない。
ただ単に動物以上でも以下でもない、というにすぎない。無論この考察、認識自体も生じ得ない。
もし我々に思考という道具が備わっていなければ自己認識、つまり私・自我意識は生じえないからである。くどいようだが自我意識が無ければ世界そのものの認識、自覚は生じ得ないのである。
この考察は、私が前から何度も繰り返して言い続けている内容である。

自明だが、私という自覚が無ければ世界も他者も認識の対象たり得ない。
我々の用いている思考とは単なる個人の所有物でもない。我々人間に本来備わり用いている普遍的な「思考存在・実体」でもある。この思考そのものの考察が頗る重要な問題にも関わらず、今日の時代に至っても考察の対象にされていないというのが実情なのである。
我々は如何なる時にでも思考を用いている。思考の結果、我々は様々な、或いは各個々人に相応しい言動に及ぶ。
この思考に関する考察という問題は共通の意識状態、基盤に立たぬ限りは限りなく紛糾する。思考そのもの、思考の実体を物の如く指し示すことは出来ないからである。この考察自体が其々各自の主観に基づくもののとして簡単に処理されてしまう。此処に紛糾の問題が含まれているのだが、これは感覚界にあるあらゆる事物を知覚するようには知覚できない、という単純な理由による。
万人が共通に認識し得るような数量化不可であるという、これまた単純な根拠に依る思考法が殆どの魂を呪縛しているからである。これを物神思想とも言う。この物神思想とは唯物論的世界観的思考法を基盤とした極一般的な私を含めた世界に対する認識法なのである。この呪縛を打破するのは容易ではない。
私が死ねば知覚する「主体」である「私」は消え去る。私が消え去るとすれば「知覚する私」が存在しない以上は世界を知覚することは不可能である。ゆえに「私が消滅すれば世界も消滅する」という彼の有名な唯物論的基盤に立脚した観念的世界観が生じる。この世界観は今日でも衣装、概念は違えど殆どの哲学者と称する存在達の魂に根深く巣食っている。この世界観が既に日常的に、習慣的に用いられている。

さて、これは日常生活を営む人々、存在だけではなく芸術表現する存在達の魂をも深く浸食しているのである。
近代から現代に至るまでに個々人を襲った受難劇とも謂える悲劇劇は今や意匠となって芸術を蹂躙しているといっても過言ではあるまい。

先日或る先駆的抽象画家に対して知名度のある学者と文学者がテレビで語っていた。実名を挙げても大して意味はない。殆どの自称他称博学、識者と称される人物の代表のようなものだからである。

抽象表現形式が生じた要因は必然的なものである。これは思考の考察にも似た困難な問題を含んでいる。
簡単に言えば、無知の知や不立文字、相対的意識、虚無、空等々の概念、意識状態と同質の意識状態、或いは自己認識の個人の限界の自覚であるが、これは到着点ではなく此処の地点が真のスタート地点である、と言えば大抵の人物の思考は混乱する。単に事物を公平、純粋に偏見なく観る一視点にすぎぬ、と言い切れば反感さえ抱かれるであろう。
さらに換言して言えば「我々はやっと自己認識の真のスタート地点に立ったのだ」と。この物言いは「おまえは何様のつもりだ、偉そうに」と。傲岸不遜極まりない人物と看做される。
我々の時代に至って、あらゆる境界は消失した。この消失は個人の魂に内的倫理的な課題を自らが背負わなければならぬ、という自己責任と自覚が伴う。
この自覚は個々人の趣味趣向や個人的興味なども完全に消滅することを意味する。この個人の受難劇はあらゆる表現形式に及んでいる。この重責に耐えきれずに殆どの先駆的表現者は斃れた。この難破、方向を見失い自滅した魂の「表現者達の作品」を一瞥すれば分かることである。
この難破した状態は依然として打破されずに百花繚乱の如き様相を呈している。


2009年7月29日

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自叙伝「孤高の歩み」 —虚無から創造精神へ— (幻冬舎)
「孤高の歩み」梅崎幸吉著 アマゾンにて紙の本と電子書籍版販売中
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小林秀雄論他二作品

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2024年4月25日木曜日

拙著「小林秀雄論」より

 拙著「小林秀雄論」より


「未知のものに達する。そして狂って、遂には自分の見るものを理解する事が出来なくなろうとも彼はまさしく見たものは見たのである。」又「他界から取って来るものに形があれば形を与えるし、形のきまらぬものなら形のきまらぬ形を与える」(ランボオⅢ、千里眼の手紙)しかない。確かに、形になり得ぬものがある。

カメレオンは色だけだが形は変容しない。ましてや、人間の複雑な心となればなおさらである。形にならぬ形、ある秘められた実体というものは確かに存在する。小林秀雄がある友人に語ったように「じっと見つめているんだ見て見て、見抜くまで見つめているんだよ、ただ見抜いただけではいけないんだよ。そこまで来たら、さっと底の底まで知りつくすことが出来るようにならなくてはいけないんだよ」と、この地点まで至らねばならぬ。そこまで至ればすでに対語など不用になる、つまり「以心伝心」の境地だからである。


 青山二郎との対談の中で小林秀雄は日常秘めていた本音を語っている、彼は言う「否定する精神なんてないさ。僕が今度ゴッホで書きたいほんとうのテーマはそれだよ。ゴッホという人はキリストという芸術家にあこがれた人なんだ。最後はあすこなんだよ。キリストが芸術家に見えたのだ。それで最後はあんなすごい人はないと思っちゃったんだ。だから絵のなかに美があるだとか、そういうものが文化というものかもしれないさ、だけど、もしもそんなものがつまらなくなれば自分が高貴になればいいんだよ、絵なんか要らない。一挙手一投足が表現であり、芸術じゃないか、そういうふうなひどいところにゴッホは陥ったので、自殺した、と僕は勝手に判断している。――」。

さらに、「牧師だって絵かきと同じだ。」と。又、「――何のためにパレットを人間が持たなければいけないのだ。絵の具を混ぜなければいけないんだ。どうしてそんなまわりくどい手段を取るのか、キリストみたいに一目でもって人が癒されればいいじゃないか。何んで手が要るんだい、道具が要るんだい、ゴッホはそういうことろまで来たのだよ。だけどそれがゴッホの運命さ、そんなことをゴッホはとてもよく分かっていたのだけれども、どうすることもできなかったんだ。」と。そのゴッホの痛感した、味わった「いかにかすべきわが心」を、小林秀雄も骨の髄まで味わった。

青山二郎はそんな思いは「あこがれ」にすぎぬと言う。この溝は深い、――。小さな円も大きな円も同じ円だからである。ただ青山二郎はそこまでしか見えなかったにすぎぬ、人間存在に対する不信が完全に払拭し得なかったに過ぎぬ。その視点からすれば小林秀雄は所詮「蒸気ポンプ」の煙にすぎないのである。もしくは魚をつる、その手つきだけで、等々。だから小林秀雄としては「――自分の運命を甘受するんだ。甘受するよりしょうがない。考えればそういうところに行くのだよ。」と言わざるを得ない。断わっておくが、青山二郎に友情が無いなどとここで言っているわけではない。むしろ、深く小林秀雄には同情している、ただ、その同情のべールが小林秀雄の真意を汲み取ることが、観ることが出来なかったにすぎぬ。――だから小林秀雄は自分に与えられた運命を「甘受」する、するしかないとしか言えぬ、語れぬ。


小林秀雄は「魂の深淵の旅」の成果を確かめる、再確認の意味をも含めた実験的表現を「近代絵画」で試みた。出来うる限り他者の魂の在り方、意図、心の動きに即して、――魂の遠近法と透徹した科学者の無私の精神をもって。自らの「自我の奥底を覗き込んだ芸術家達」の肖像画を描く。


「マネからゴッホやゴーガンに至る道は、ボードレールからランボオやヴェルレーヌに至る道であった」と。そして、それを日常化する思想家的存在として「ピカソ」を最終章にもってくる。小林秀雄はピカソを自分と似た「宿命」を胸中深く蔵した存在と、観た。ピカソのなかに「自己解体」の果てに至った自己の「断片」をいかに、個人の名において「生命的に統一」するか?と真摯におのれの問題と化した、果した芸術家の魂を観た。観えてなを、それを「宗教の名」において語らず、「体系」の名において語らず「いかに自由に」表現しうるか?と、日常化しうるか?と、――ピカソは「万人の自画像」を描こうとした。その内的歩みにどれほど深く秘められた孤独と、悲哀、絶望がピカソを襲ったか、いかにそれを乗り超える内的努力をし続けたかを、小林秀雄の慧眼はしっかと見抜き、見据えていた。ピカソに対して一番長い文章を必要としたのはそのためである。そこいらの美術評論家の上っ面をなでるような分析的表現とは雲泥の差がある。「近代絵画」は小林秀雄の心が「素裸」のまま、存在と存在が融合しつつ、ぶつかり、火花を散らし、そして「親心の眼差し」で、深い共感をもって現わした、かつてないほど比類なき芸術家の「魂の肖像画」なのである。

歯ぎしりが楽音に、忍耐が空間へ、悲哀が慈しみに、孤独と苦悩が魂と魂の生きた織物へと、――ついに、毒が薬へと変容する。肉を具えた「同胞」への限りない「深い真面目な愛」が日常の意識と化し、不動のものとなる。次の文章は小林秀雄の批評の極意と言ってもよい。


「セザンヌは、自然というところを感覚と言ってもよかったのである。或は感動とか魂とか言ってもよかったであろう。感覚を解放するとか純化するとかいう事は、感覚から感受性を隔離するということではない。そういう工夫は、感覚に対する言わば外的注釈にすぎない。在るがままで、自足しているが、望めば望むだけいくらでも豊かにもなるし、深くもなる。そういう感覚はある。画家たらんと決意すれば立ちどころにある。静かに組み合わせ、握りしめた両手の中にある。一方の端は、自然に触れ、一方の端は、心の琴線に触れていて、その間に何の術策も這入って来る余地はない。大事なのは、この巧まない感覚の新鮮な状態を保持し育成する事なのだ。彼の言葉に従えば、油断すれば、あらゆる言葉となって、行動となってばらばらに散って了う、この不安定なものを繰り返し、静かに両手のうちに握り合わす事なのだ。『いつまでも、自分の開いた道の原始人に止まろうと努める事なのだ』。自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事だ。セザンヌの実感或は信念よりすれば、自然にも心の琴線があるという事である」


(拙著「小林秀雄論」より抜粋)



「小林秀雄論」アマゾン電子書籍


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2019年2月17日日曜日

"Requiem" Oil on canvas, pencil, canvas.

"Requiem" Oil on canvas, pencil, canvas.


https://www.saatchiart.com/art/Painting-Requiem/347946/4773158/view


Umezaki Art "Family"

Kokichi Umezaki  梅崎幸吉

"Family" oil painting, pencil,on canvas.

https://www.saatchiart.com/art/Painting-Family/347946/4764893/view


「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15

「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15
詩、声、梅崎幸吉:Poetry, voice: Kokichi Umezaki.
ドラム、パーカッション :石塚俊明: Drum, percussion:Toshiaki Ishiduka
フルート、ソプラノサックス:狩俣道夫:Flute, soprano saxophone: Michio Karimata 
映像構成:伊東哲男:Video production.Tetuo Ito

「鬼神ライブ」渋谷アピア 2008.5/15


2019年2月4日月曜日

「鬼神ライブ」渋谷アピア2007.11/2

私はこのライブの翌年に両眼とも網膜剥離になり手術した。
その後、6年前に右肺の上葉部を摘出。 アスペルギルス症が40歳の時の肺結核になった箇所に巣食っていた。
12時間の手術。
それ以降「鬼神ライブ」は開催していない。

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「 鬼神ライブ」渋谷アピア2007.11/2
詩、声、梅崎幸吉:Poetry, voice: Kokichi Umezaki.
ドラム、パーカッション :石塚俊明: Drum, percussion:Toshiaki Ishiduka
フルート、 ソプラノサックス:狩俣道夫:Flute, soprano saxophone. Karimata Michio
映像構成:伊東哲男:Video production. Ito Tetuo.

https://www.youtube.com/watch?v=XM4YPAAGBuM
https://www.youtube.com/channel/UCSh_kIxPi28TPKhp-k0c6bA?view_as=subscriber

2016年9月2日金曜日

表現の本質について



「表現の本質について 」


 ここで考察の対象として扱われる「表現」とという言語は生存即表現にまで至った「創造的なもの」としての「表現」であることを初めに明記しておく必要がある。何故かかる「表現」という概念用語にこだわるかといえば、今日の芸術表現とか美的表現等々と安易にコンビニに並んでいる商品と同等同列に売買されているからである。

 芸術表現の内容そのものが一般化されること自体には意義がある。ただ、質と量に関する重要な内実が無視されて等価値に取り扱われるとなると事は深刻な問題を含む。簡単に言えば表現の本質は市場で取引されるような商品とは根本的に異質なものなのである。これは高級とか低級といった問題ではない。近代から今日に至るまで哲学思想界の先駆的存在者達によって一切の価値転換という相対的視点の変革が行われて生存の意味や意義、或いは形而上的世界(精神界)が放逐された。現実から遊離した半端な空想妄想的世界観を根絶やしにする為には一役かったが、本質的な問いをも併せて放逐するとなれば野蛮極まりない暴力と言わざるをえない。

 確かに厳密な言語思考による考察が相対化され、偏見や公正なる視点が一般化されるのは望ましい。その意味においては存在論的には肯定するにしても現実の社会実状のお粗末さは悲惨極まりない。(真の形而上的世界、精神世界に関する探求のみが自己探求たりうるのであるが、この探求自体が狭隘な精神の自由の名のもとに自ら崩壊し方向を喪失している。)
 我々は加速的に堕落腐敗に浸食され続けているにも関わらず、ますます実体無き「表現」は多様化しては枝葉雑草のように増殖し続けている。
 それ故、敢えて芸術表現、創造的表現という言葉ではなく単に「表現」(無論、前提としては広義の意味においてだが。)という概念を用いることにした。

 だが、この考察の最後の方では創造的な意味での表現即生存、生存即表現という視点による考察論調へと必然的に移行することになる。
 今日、あらゆる分野の「表現」の核となっている世界観は相対的ニヒリズムと言っても過言ではない。この現象自体は極めて矛盾に満ちている。それにも関わらず自覚無自覚を問わず個人の魂を魅了している。生成死滅する感覚界においては確かに生存自体が無意味で一切が相対化されうるとの思考は可能である。だが、この一思考の結果が生存即無意味であると判断するのは誤りである。世界に対する態度としての、一切の偏見や公正な一視点としては自明の如く必要ではあっても、この視点から思弁によって導き出された世界観などあくまでも唯物論の範疇にすぎない。
 確かに自然科学的考察においては自明である相対的思考にすぎぬ視点が人間生存の世界観となり目的となれば、個人の個人たる足場は消失し自滅に至るのは当然である。それにも関わらずファッションの一意匠として威力を奮い我々の魂が好んで魅了され酩酊するのは何故か?(敢えて精神とは言うまい。)通俗的な言い方をすれば味噌も糞も一緒くたにしてしまえば都合がよいからである。「全ては等価値にすぎぬ」と、個々人の魂に何と心地よく響く言葉であろうか。さらに弱肉強食のおまけ付きとくればなおさらである。一切の価値が相対化されるとは一切の基準の無を意味する。その限りにおいては自由も不自由も無ければ善悪の区別も無い、さらには全て個人の責任においての選択の自由とくれば何でもござれである。個人という存在すら相対化され、当然なことに責任や倫理という概念すら消滅する。かかる一切の境界を消し去り、好き勝手な言動何でもありということが可能な魔法のごとき思考、思想を誰が拒もうか。

 この物質界のみ当てはまる一思考が芸術、文学、思想界に君臨し、一般化されて久しいが、かかる現象は単に世を混乱退廃させるだけではなく無自覚な社会的集団狂気へと変貌させるのは必至である。
 しかし、個人の魂において不可欠であった相対的思考は内実を伴わず伝播したとはいえ、総体として厳密に考察すれば決して悪しきことのみではない。腐食した土壌が生物の養分となるように、環境に呪縛されずに貴重なるものが成長することも又可能となったのである。その意味では自己認識においてはやっとスタート地点に立った、と言うこともできる。だが、このスタート地点以前の存在達が時代の最先端にいる、と自負しては社会でのさばっている。(最も、時代の流動推移する色合いにすぎぬ彼らは攻撃するまでもなく放置していても単に無知愚鈍なるがゆえに自然消滅するであろうが。)
 換言すれば相対的世界観とは悪しき無常観でもある。本来の相対的意識は表現方法としては抽象表現の母体にすぎない。くどいようだが一切の価値転換とは全ての事物(不可視なる霊魂、想念をも含む。)に対して無偏見視、透明な眼差しの獲得に他ならぬ。それ以上でも以下でもない。故に自己探求の途上で抽象表現に至った作家達は東洋的世界観に強く惹かれた。自己滅却したうえでの自己保持が如何にして可能であるか?純粋な関係性のみの関係の意識のみで如何に自己意識を保ちうるか?と。さらには解体された過去の論理体系は全ての支点を喪失し、個人は言語的矛盾に陥るどころか完全に失語する。
 だが、依然として思考自体は個人の思惑とは関係無く活動する。なぜなら思考自体はそれ自体で独立した意識存在なのである。換言すれば純粋思考存在である思考は我々が人類として存在するように思考存在も思考存在として完成した独立存在として我々に与えられている。この思考自体の存在の自覚無自覚の度合いに準じて分析の緻密さの濃淡が存する。哲学的用語を使えば先天的即自的に我々人間に備わっているのである。我々に何時何処で何の為、誰が等々の問い、あらゆる問い「備わっているということ自体何故分かるのか?」という問いにもこの即自的存在であるとしか言えない完成された独立した思考存在の助けを必要とする。この間の考察がはなはだ不明瞭な為に分析の基本となるべき基本言語が曖昧に使用され論理矛盾に陥るのである。「最初に思考在りき」が意識無意識を問わず前提となる。この我々自身を対象化、考察する道具としての思考存在を前提として思考しなければ一切の分析思考は迷走混乱するのみである。

 さて、話を戻すと我々にとって知覚する対象(概念も含む。)を相対化した以上単なる名称無き「ある意識」としか言えない。全ての概念は思弁的な仮の命名にすぎない。いわゆる意識という言語ですら思考によって分析判断命名された一概念である。(無論、思考という言語も然り。)さらには知覚する対象、或いは知覚する機能が停止、消滅すれば一切は無(無論、感覚的現象界においてのみだが。)と化す。生成死滅する現象界に限定した観念的世界観、これが「世界は表象にすぎぬ」という素朴な世界観となる。物質界を基盤とし、知覚する対象自体、それを知覚する主体である個人の自己意識の消滅と共に一切が無と化す。何のことはない元の木阿弥ということである。かかる結論に至るような思索や問い自体のみであるとすれば最初から思考停止の状態で獣の如く生きればよいことである。一切は屁理屈というも愚かである。確かに此の限定された物質界に依存従属した存在であれば、それが全てであれば至極自明というも無用である。
 だが、我々は人類という考える生物でもあり動物でもある。此の実体を伴わぬ虚無観に不満を抱き、更に先に生存の意味を探求し、結果的には似た視点に至るもその無意味な生存を丸ごと生きるのが人類の運命であると、常に超克する意志の存在こそすなわち超人が人類の課題であるという世界観、かのニーチェの「生命哲学」と称される唯物論を土台とした徹底的な個人主義が生まれ、さらにそのいびつな落とし子として実存主義なる唯物論を足場とした矛盾をはらんだ観念的世界観が生じた。詳細に語るまでもなく、他のシュールリアリズム、ダダイズム等々はその範疇の一実験にすぎない。一切の基準を無くしたら単なる無自覚な生物にすぎぬ。ましてや自己意識すら持たぬ存在に表現自体不可能である。生存の為の生存、生物的生、自然の摂理に依存しなければ生存自体が不可能であることなど、考えずとも子供でも分かる単純な理屈である。だが、この単純な問い自体が未解決のまま現在でも最先端の思想としてまかり通っているとは、形容し難い悲惨な光景である。
 我々は紀元前からの命題である「汝自身を知れ」という自己認識の困難さを克服するどころか未だ無知の知の実体すら朦朧たるものとしてしか認識していない。否、それどころか現状では真摯な自己探求の意志を自ら放棄している、と言ったほうが事実に近い。

 今日の我々の意識の在りようは約二千三百年前の荘子の世界にのどかにじゃれあう児戯に等しい。さらに三百年ほど遡る孔子の厳しい実践的意識を前にすれば実存主義思想など赤子の如きである。