「表現雑感」
我々人間存在の生存の根拠を問うということとあらゆる表現活動は密接に連動相関関係がある。だが、この根拠の問い自体が今日に於いては唯物観的観点から捉えられて浅薄な世界観と化し、猛威をふるっている。
相対的思考によって導き出された生存の問いの結論、「無意味こそが意味」であるという五感覚的知覚・物質界の法則のみが真理であるとする思考形式に対する妄信的呪縛。
所謂物神信仰は今日我々の魂に伝染病の如く蔓延していて、そのことに無自覚どころか本来人間にのみ普遍的恩寵として具わっているという「思考」を我々の個々人の特産物であるかのように思い込み、さらには物質と同質とみなし、その思考による考察こそが唯一の考える中心であり基盤であるとして居座っているのだ。これは由々しき問題であるにも関わらず依然として「思考そのもの」を軽んじている。我々の認識行為は思考を用いなければ如何なる行為も為し得ない。こんな単純な事すら未だ認知され得ないということは驚嘆すべき事実なのであるが、これも又相対的思考によって実体なき思考内容に相対化され得る。
われわれの表現活動とて思考を用いなければ如何なる表現も為し得ない。
我々の行為自体は意志による。意志なき行為などあり得ぬ。また意志には動機が不可分である。動機なき意志など行為へとはなり得ない。此処で問題となるのはその行為の動機となった根拠、動機の根拠内容が問われる。
つまり根拠の根拠となった要因、この考察である。ここで殆どの個人の思考は混乱する。根拠の根拠を問うことは通常の無意識的な意識状態の考察でもあるからだ。
我々は簡単に理解しがたい事柄や難しい問題にぶつかると本能という便利な概念を用いる。ここで動物や生物と同じ次元へと考察の対象が移行する。物質的、数量化し得ぬものは考察の対象にはなり得ない、というのが理由なのである。不可視なるものは個々人の主観にすぎぬというわけだ。
此処の地点は相対的イタチごっこの様相を呈する。考察する個人が知覚・体験感受した者に準じて主観的であると。万人に証明出来ぬものは如何なるものも主観に属すると。我々は何人も生成死滅の原理から逃れ出ることは出来ぬ、というのが根拠であると。これが実体無き浅薄な無常観なのである。これ以上の考察は我々の能力を超えている、と。これと似たような考察反論は満ち溢れている。ゆえに表現が新たなる地平で生じざるを得ぬ。ただ此処の地点を自覚した存在は個人として厳しい人生を歩むことになる。これも自明のことである。
この通常とは異なる意識状態を表現する事は新たに困難を生み出すことにもなる。文学的に謂えば異形者として生きなければならぬ。生き抜くには如何にこの意識状態を日常的に溶かし込むか、日常化するかの一点に存する。
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