白闇秘聞
2016年6月4日土曜日
「或る異端の書 」 白闇秘聞
「或る異端の書
」
一体、誰がこの秘界の光景に耐えられ得ようか。
あらゆるものが混然かつ一瞬に変容する様を・・・。
空間や時間が融合しつつ歪み捻れ、そのなかに異様なる形態、色彩、叫音が明滅しては絡み変化する。
この界の一切のものらは全体の断片であり不可視の神経のような糸に繋がれてもいる。そのものらから放たれる名状し難い響音や色、様々の光りの乱舞、その軋みたるやおぞましくもまがまがしくもあり、何とも例え難き・・・。
*
おお われらわれわれらのいようのさまの
おぞましさよ このよのものとにてもにつ
かぬこのすがた このありようよ さても
はてもおのれのいんがとはいえたえがたき
たえがたきおのれをたえるもならじ ああ
このよあのよとよまよいごとのかつてのく
らしのなつかしき よまようことのなつか
しき しきしきくるいの ああなつかしき
*
狂気正気や空からまわり
風も吹かぬか無限の地獄
因果の業すらここちよし
ひとのころころこんころり
いんかねいしょんこんころり
さてははてはさてはてて
ぽじねが反転空転転
いろはにほへとちりちりり
*
さて、我等の本源の在りようを探求する者後絶たず、と言いたいが事はそう簡単ではないようである。だが、それとこれは別物としたたかに生存するものの皆無というわけではない。
世が如何なるありようであれ常に戦う者は存在するのは自明である。たとえその存在が他者の眼に不可視的であろうともだ。
色即是空空即是色の識を日常的生の根幹とすべく悪戦苦闘しているにしても誰が何と云おうがいつの世にも存在する。
二〇〇一年 五月二十九日
2015年5月22日金曜日
「耳に順う」事の難しさ
「耳に順う」事の難しさ
日常生活は基より、優れた表現者(芸術家)といえども虚心坦懐に聴く耳を備えているか?といえば微妙な難問に変じる。
かの孔子ですら「六十にして耳に順う」と言っている程であるとすれば、よほど洞察力に自信がある人でも謙虚にならざるを得まい、と思われるのだが現実の情報社会のなかにあっては悠長すぎて死語と化しているらしい。無論、「死語」という言葉には自他共に辛辣な皮肉を込めている。
「百聞は一見に如かず」とは他者の意見や噂に囚われぬ公正な見方を所有せよ、との格言であるが、このまま額面通り受け取るわけにはいかない。何故なら、染み込んだ他者の見解を脱色しているか?自己の眼や耳が研ぎ澄まされているか?が問題となる。
我々の裡には聖者でないかぎりは、半ば無意識的に自己防衛生命本能ともいうべき意識が潜んでいる。その意識の自己分析の自覚化、徹底度に準じて自他との関係に様々な視点、観点の差異が生じる。ましてや、怜悧な頭脳の持ち主ほど精妙な自己防御意識が潜んでいる。いかなる他者の評価といえども質と量の真偽を洞察するには同等の、それ以上の慧眼を必要とするからである。この問題自体が今日においても錯綜しているのが現状である。
さらには「詩人は自己の裡に最上の批評家を蔵している」とも言われているが、これに関しても事は同じで、近代以降、その批評の観点自体が如何なる世界観の基に形成されているかによって微妙なずれが大きな障壁ともなりうる。人間存在探求の土台自体、その尺度となるべき視点が、実証可能な唯物史観が強力な趨勢事の哲学界はもとより、それに準じた諸分野も混迷している時代であれば、種々なる批評家が異様ともいえるほど蔓延しても不思議な現象ではない。換言すれば、実質を問わず、如何なる批評も相対的には存在可能なのである。
かといって、この現象自体を即善悪という問題に転化するのは早計である。視点を変えれば状況や環境に左右されぬ強靭な個性が育つ可能性をも含んでいるからである。だが、その可能性を自他共に育成、深化させうるかは各自が繊細かつ強靭な「聴く耳」を所有しなければならぬ。
古今を問わず、世に溢れている数多の論戦は常に自己を優位にするための「論戦の為の論戦」に堕している。無論、論争、論戦となれば弱肉強食的力学が作動するのも当然である。各自、自己の持てる限りの武器と戦略を総動員して戦う。戦い自体の次元の高低など問題にならず、勝利か敗北しかない。この戦い自体に関する現象の「不毛か否か」は各自の世界観と倫理に属するとしかいえない。善悪の彼岸すら相対化しうるのが今日の現状だからである。
個人が人間の名のもとに「平等と自由」の権利を所有、乱用すれば、世に最善と最悪の混淆する個人が出現するであろうとは、すでに精神の自由を希求した鋭敏な批評精神を蔵した先駆的存在達が予言的に危惧していたことである。
明敏な精神の所有者にとっては眼前に繰り広げられる暗澹たる光景も自明の結果と映じる。さらにその様々なる光景をも自己の裡で徹底的に消化せざるを得ないということも痛感するであろう。その為には今まで以上に「耳に順う」ことの微妙で過酷な苦闘を、その難しさを噛みしめ味わうのみである。名状し難い味と云っても始まらぬ。自覚した者が各自の方法で忍耐強く確実に知肉化するしかない。
いかなる時も、我々は常に途上である事を謙虚に知るべきであろう。
二〇〇〇年 九月二十五日
2010年12月6日月曜日
「無知の知の日常的自覚」(拙著小林秀雄論より)
「無知の知の日常的自覚」(拙著小林秀雄論より)
「――小乗は初後ともに実相を知らず、故にいまの漸にあらざるなり。問う、三文を示さば、文はこれ色なり。色はこれ門なりや、門にあらずとせんや。もしこれ門ならば、色はこれ実相なり、さらになんの通ずるところぞ。もし門にあらずんば、いかんがして一色一香みなこれ中道なりというや。答う、文と門とならびにこれ実相なり。衆生は顛倒多く、不顛倒少なければ、文をもってこれを示すなり。すなわち文において文・非文・非文非不文に達すれば、文はこれその門なり。門に一切の法を具す。即ち門、即ち非門、即ち非門非文門なり。」(摩詞止観、序章、関口真大校注)
生身を具えた個人が普遍的意識に至ると(心情であれ、観念であれ)、一個人を支える基盤が消失する。だがそれでも依然として肉体を持つ個人は、あくまで「個人」として存在する。個と全体との一体感を感覚レベルにおいて体験した場合に、先に言った「心眼」が覚醒し、思考を通して「自己認識」がいやでも自覚され「世界認識」へと発展す る。ここにあらゆる「個人」の存在の、生存の危機が、自己喪失の可能性がある。真の狂気とは多次元的意識と心情を具え、かつ明晰な自己意識を所有した個人の「対人間関 係」の異名である。その意識を日常的に持続することが非常に困難なのである。少しでもバランスが崩れると人格が分裂し、崩壊する。まして「教義」によらず、「体系」によ らずとなればなおさらである。ふつういわれる狂気とは所詮「現実からの逃避」にすぎぬ。
最もその区別をつけるのは、果して正気の者か、狂気のものか分かったものではな いが。あえて言えば、今の現実においては真の狂気が、真の正気である。むろん日常生活で他との調和がとれずバランスを崩せば「病い」と断定されてもやむを得ぬ。この実体を知らぬ者達がいわゆる「狂気」という一見非日常的な意識状態にあこがれる。
――近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――。
――近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――。
「無知の知」の意識と、「抽象表現」の形式を生み出した原理意識は根本的に同質である。その自覚が、その意識が、個人の魂に意識化させられる。そして、それを一般化せねばならぬ、させねばならぬ、と。だが、自我の奥底を覗き、かつ、自己のバランスを保つ事だけで精一杯の自分が、――むろん、「成しうる事を成す」ことは自明のものとなっている。自己の生きている時代に即して、即さずいかに、そのことを「万人」に伝えるか? いかなる表現、形式を生み出さねばならないか? それも「個人の名」のもとに、かつて聖者達が所有した意識を、心情をいかに悟らすか、どのような階段を、パイプを、橋 を作るか!?――。
「いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。」。天才であればあるほど苦悩は深く、強く、激しい。当然である、「彼岸と此岸」のはざまに意識的に立つからだ。彼の「プロメテウス」のごとく。
「肉は悲し」などという意識だけでは「象徴の森」、「虚空遍歴」から脱け出ることは出来ぬ。
ただ「近代」という時代にあっては小林秀雄の言うごとく「伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識を持って人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生と いう『象徴の森』を横切る筈である。それは彼に言わせれば、夜の如く或いは光の如く、果しなく拡がり、色も香も物も互いに応え合う。こういう世界は、歴史的な、或いは社 会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現われる。それは彼の言う『裸の心』が裸の対象に出会う点なのである。詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や 約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である。とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物 にも頼らない詩の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。」。これは詩に限らず他の分野にも言える。そして「詩」という言葉を「個人」という言葉に置き換えてもいいの である。「詩魂」とは「いかにかすべきわが心」の精髄である。
「いかにかすべきわが心」 だけでは済まぬ現代にあって、知的ゲームの達人や地上を、日常的生を遊離する中途半端な神秘家や教義に呪縛された宗教家達は毒にも薬にもならぬ「仙人」にすぎぬ、やじ 馬にすぎぬ。
(中略)
「毒は薄めね ばならぬ」。そしてついにあらゆるものに対する「親和力」を身につける。これがあの、 かつては観念であった言葉、「驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得た」が、彼自身の魂となり、肉体と化した。
拙著小林秀雄論より)
「――小乗は初後ともに実相を知らず、故にいまの漸にあらざるなり。問う、三文を示さば、文はこれ色なり。色はこれ門なりや、門にあらずとせんや。もしこれ門ならば、色はこれ実相なり、さらになんの通ずるところぞ。もし門にあらずんば、いかんがして一色一香みなこれ中道なりというや。答う、文と門とならびにこれ実相なり。衆生は顛倒多く、不顛倒少なければ、文をもってこれを示すなり。すなわち文において文・非文・非文非不文に達すれば、文はこれその門なり。門に一切の法を具す。即ち門、即ち非門、即ち非門非文門なり。」(摩詞止観、序章、関口真大校注)
生身を具えた個人が普遍的意識に至ると(心情であれ、観念であれ)、一個人を支える基盤が消失する。だがそれでも依然として肉体を持つ個人は、あくまで「個人」として存在する。個と全体との一体感を感覚レベルにおいて体験した場合に、先に言った「心眼」が覚醒し、思考を通して「自己認識」がいやでも自覚され「世界認識」へと発展す る。ここにあらゆる「個人」の存在の、生存の危機が、自己喪失の可能性がある。真の狂気とは多次元的意識と心情を具え、かつ明晰な自己意識を所有した個人の「対人間関 係」の異名である。その意識を日常的に持続することが非常に困難なのである。少しでもバランスが崩れると人格が分裂し、崩壊する。まして「教義」によらず、「体系」によ らずとなればなおさらである。ふつういわれる狂気とは所詮「現実からの逃避」にすぎぬ。
最もその区別をつけるのは、果して正気の者か、狂気のものか分かったものではな いが。あえて言えば、今の現実においては真の狂気が、真の正気である。むろん日常生活で他との調和がとれずバランスを崩せば「病い」と断定されてもやむを得ぬ。この実体を知らぬ者達がいわゆる「狂気」という一見非日常的な意識状態にあこがれる。
――近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――。
――近代から現代に至っていわゆる「愛と認識の殉教者達」が続出した。有名、無名を問わず、――。
「無知の知」の意識と、「抽象表現」の形式を生み出した原理意識は根本的に同質である。その自覚が、その意識が、個人の魂に意識化させられる。そして、それを一般化せねばならぬ、させねばならぬ、と。だが、自我の奥底を覗き、かつ、自己のバランスを保つ事だけで精一杯の自分が、――むろん、「成しうる事を成す」ことは自明のものとなっている。自己の生きている時代に即して、即さずいかに、そのことを「万人」に伝えるか? いかなる表現、形式を生み出さねばならないか? それも「個人の名」のもとに、かつて聖者達が所有した意識を、心情をいかに悟らすか、どのような階段を、パイプを、橋 を作るか!?――。
「いずれにせよ、人間は、憎悪し拒絶するものの為には苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る。天才もまた決して例外ではないのである。」。天才であればあるほど苦悩は深く、強く、激しい。当然である、「彼岸と此岸」のはざまに意識的に立つからだ。彼の「プロメテウス」のごとく。
「肉は悲し」などという意識だけでは「象徴の森」、「虚空遍歴」から脱け出ることは出来ぬ。
ただ「近代」という時代にあっては小林秀雄の言うごとく「伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識を持って人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生と いう『象徴の森』を横切る筈である。それは彼に言わせれば、夜の如く或いは光の如く、果しなく拡がり、色も香も物も互いに応え合う。こういう世界は、歴史的な、或いは社 会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現われる。それは彼の言う『裸の心』が裸の対象に出会う点なのである。詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や 約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である。とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物 にも頼らない詩の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。」。これは詩に限らず他の分野にも言える。そして「詩」という言葉を「個人」という言葉に置き換えてもいいの である。「詩魂」とは「いかにかすべきわが心」の精髄である。
「いかにかすべきわが心」 だけでは済まぬ現代にあって、知的ゲームの達人や地上を、日常的生を遊離する中途半端な神秘家や教義に呪縛された宗教家達は毒にも薬にもならぬ「仙人」にすぎぬ、やじ 馬にすぎぬ。
(中略)
「毒は薄めね ばならぬ」。そしてついにあらゆるものに対する「親和力」を身につける。これがあの、 かつては観念であった言葉、「驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得た」が、彼自身の魂となり、肉体と化した。
2010年11月20日土曜日
梅崎幸吉創造雑感: 「観ると言う事」
梅崎幸吉創造雑感: 「観ると言う事」: "「観ると言う事」 常に未知の領域に挑まんとする表現者は観る時間が多くなる。決定するぎりぎりまであらゆる視点観点から観て、全体が壊れる一歩前で決断する。筆を置く時の難しさである。表現には生き死にが問われる。これは日常の生き方にも通じる事である。ただこの意識状態を貫くのが難し..."
2010年11月17日水曜日
「表現雑感」
「表現雑感」
我々人間存在の生存の根拠を問うということとあらゆる表現活動は密接に連動相関関係がある。だが、この根拠の問い自体が今日に於いては唯物観的観点から捉えられて浅薄な世界観と化し、猛威をふるっている。
相対的思考によって導き出された生存の問いの結論、「無意味こそが意味」であるという五感覚的知覚・物質界の法則のみが真理であるとする思考形式に対する妄信的呪縛。
所謂物神信仰は今日我々の魂に伝染病の如く蔓延していて、そのことに無自覚どころか本来人間にのみ普遍的恩寵として具わっているという「思考」を我々の個々人の特産物であるかのように思い込み、さらには物質と同質とみなし、その思考による考察こそが唯一の考える中心であり基盤であるとして居座っているのだ。これは由々しき問題であるにも関わらず依然として「思考そのもの」を軽んじている。我々の認識行為は思考を用いなければ如何なる行為も為し得ない。こんな単純な事すら未だ認知され得ないということは驚嘆すべき事実なのであるが、これも又相対的思考によって実体なき思考内容に相対化され得る。
われわれの表現活動とて思考を用いなければ如何なる表現も為し得ない。
我々の行為自体は意志による。意志なき行為などあり得ぬ。また意志には動機が不可分である。動機なき意志など行為へとはなり得ない。此処で問題となるのはその行為の動機となった根拠、動機の根拠内容が問われる。
つまり根拠の根拠となった要因、この考察である。ここで殆どの個人の思考は混乱する。根拠の根拠を問うことは通常の無意識的な意識状態の考察でもあるからだ。
我々は簡単に理解しがたい事柄や難しい問題にぶつかると本能という便利な概念を用いる。ここで動物や生物と同じ次元へと考察の対象が移行する。物質的、数量化し得ぬものは考察の対象にはなり得ない、というのが理由なのである。不可視なるものは個々人の主観にすぎぬというわけだ。
此処の地点は相対的イタチごっこの様相を呈する。考察する個人が知覚・体験感受した者に準じて主観的であると。万人に証明出来ぬものは如何なるものも主観に属すると。我々は何人も生成死滅の原理から逃れ出ることは出来ぬ、というのが根拠であると。これが実体無き浅薄な無常観なのである。これ以上の考察は我々の能力を超えている、と。これと似たような考察反論は満ち溢れている。ゆえに表現が新たなる地平で生じざるを得ぬ。ただ此処の地点を自覚した存在は個人として厳しい人生を歩むことになる。これも自明のことである。
この通常とは異なる意識状態を表現する事は新たに困難を生み出すことにもなる。文学的に謂えば異形者として生きなければならぬ。生き抜くには如何にこの意識状態を日常的に溶かし込むか、日常化するかの一点に存する。
「観ると言う事」
「観ると言う事」
常に未知の領域に挑まんとする表現者は観る時間が多くなる。
決定するぎりぎりまであらゆる視点観点から観て、全体が壊れる一歩前で決断する。
筆を置く時の難しさである。
表現には生き死にが問われる。
これは日常の生き方にも通じる事である。ただこの意識状態を貫くのが難しいにすぎない。
特に言葉・言語表現に至っては別な諸問題がある。
今、この雑文を書くにもこの困難さを前提として書いている。
自在に伸縮する尺度・物指しなどあって無きがごとくであるからだ。
よく言われる無名性とは現実社会では強力で独断的な個性を具えた個性として存在する。
これは是非も無しと想うしかない。又、再前提ともいえる。
かかる個性にとって一切の概念は密に連動している。
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